映画「海を感じる時」を見た

中沢けいの小説「海を感じる時」との出会いは、当時中学三年生であった私にはとてつもない衝撃だった。内容は女子高生の性体験を赤裸々に綴った私小説ではあるのだが、この小説の凄さはそんな表面的なエロ要素にあるのではなくて、なんといっても澄み切った文体の透明感と、内面に斬り込んでいくような筆者の独白の鋭さの魅力にあった。

この小説に触れて以来、私はもっと本を読むようになったし、自ら文章を書く楽しみを得たのだが、ただ、これ以外の中沢けいの著作をひとつも読んでいないのは不思議なことだ。自分にとっては「海を感じる時」で彼女の世界が全て完結してしまっているということなのかなと思う。

今回、自らの来し方においても印象深い小説が映画化されたということで楽しみに見に行ったのだが、これは全く期待はずれと言わざるをえない出来上がりの悪さだった。

先ずキャスティング。数少ない登場人物が全て平成の顔立ちをしている。平成の顔立ちとは顎の力の弱いほっそりした造りだ。その対極にあるのが井川比佐志と言えば分かってもらえるだろうか。例えば堀ちえみや榊原郁恵や石野真子といった過去のアイドルは皆昭和の顔立ちをしていた。

昭和と平成の違いとはなにかと言えば、若い女性の処女性の有無だ。別に私は処女性が素晴らしいと言っているわけではないし、その点は誤解されたくない。別に昭和だったら未婚女性が皆処女だったか、不倫なんて世の中に無かったかといえばそんなことは全然ないわけだが、昭和の時代には女性に対する神秘性が残っていて、神秘のベールの向こうにあるからこそ惹かれてしまうような側面があった。今は全てが素通しのガラス張りのようで、スクリーンの中で高校生同士がセックスしようがなんだろうが別に誰も驚かなくなっている。

原作小説では女子高生のセックスやオナニー、未亡人である母との対立、社会規範との軋轢が実に衝撃的で、ともすれば三文エロ小説に堕してしまうような内容が、当事者によるその透明感のある文体によって高い次元に昇華されていた。特にセリフは最小限にしながら、筆者自身の独白が紡ぎ出して織り成す心象描写は映像化が極めて難しい題材であるなと、最初にこの原作を読んだ時に映画好きの自分はそう感じていた。

翻って今回の映画では独白を一切排して映像だけで表現しようとしたのだろう。それが可能だというとんでもない自負をいだいたかあるいは日本の脚本学校みたいなところでは「独白を使うな」とか教えていてそれを徹底的に守っているのか...(大ヒットした「アバター」は独白に始まり独白に終わる。独白は作劇上必ずしも悪ではない。)

原作の力強い独白を軽視しているから、映像はとんでもない大失敗を呈している。十代で文学各賞を受賞した少女の文章力を軽視して、監督(脚本家?)は自らの映像力を過信してしまったのだ。

だからセックスに到る一連の描写が現代のAVどころではなくて、昔日活が作っていた四畳半ポルノの次元にまで劣化している。率直に言いたい。セックスするなら男は全裸になるべきだ。シャツも靴下も履いて、パンツだけズラしてセックスなんてまともに出来るわけがないなんてことはみんな知ってるだろ?そんなパンツだけずらしたくだらない90秒のセックスシーンなんて見せられたって楽しくもなんともないし、中沢けいの小説に描かれていたのはそんな下らないセックスではない。

そういう意味では、最近の作品では「人のセックスを笑うな」は、結構良い線行っていたなと思う。

今年一番残念だった映画。最悪の映画ではないが、とても残念な映画だった。
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